2013年10月26日土曜日

「草原の風(中)」 宮城谷 昌光 (著)

久々の真骨頂。
宮城谷昌光は苦労人と徳を書くときが一番


朱示右は懸念をかくさずにいった。
大事業を成すには、独りではできない。かならず協力者が要る。それはわかるのだが、ここではその協力者が山賊同然の者たちである。かれらは政府を批判し、反政府運動をくりかえしてきたが、次代の国家像をもっていない。要するにかれらは、気に入らない者たちを倒し、殺してゆくだけで、世を刷新して治世を実現するという思想も方法ももっていない。これが次代の害にならないはずがないので、かれらと早々に絶縁すべきである、と朱祐は思っている。

たとえば皇帝の位に昇った者がみる光景は、みわたすかぎり草しかない原、というものではあるまいか。草が人民であれば、木は臣下である。木が喬くなり、生い茂れば、皇帝の視界はせばまり、天からの光もとどかなくなる。それゆえ皇帝はかならず草原をみる高さにいなければならない
いま草原に風が吹いている。

「この世には、百年にいちど、神にしかなしえないようなことをする者がでてくる。それが劉文叔であることを願い、禱るしかない」

高級官僚たちはみな優秀で、
――人とは、どうあるべきか。
ということが書かれた倫理書を諳んずることができるほど読んできた人々である。そういう人が、王莽の盗みをみとがめるどころか、その盗みに加わった。かれらは王莽とともに王朝を盗んだのである。これが儒教の秀才たちの実態である。

まもなく劉秀は生涯で最大の苦難に襲われるが、薊に到着するまでの巡撫のありかたの良さが、間接的にかれを救うことになるのである。善は、積み重ねてはじめて善になる

君子は固より窮す。小人は窮すれば斯に濫る。(孔子)


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