2013年12月2日月曜日

戈を止むるの武なり 「草原の風」

草原の風(下)
 (中公文庫) [文庫]
宮城谷 昌光 (著)

さすがの劉秀も、憑異の将器の巨きさに、この時点では、気づかなかった。
人は、外にある宝に目をむけやすい。が、内にある宝には気づきにくい。

人の巨きさと深みは、紆余曲折を経て成るのである。たやすい成功には、早い失敗がある、と想うべきである。

――疾風にして勁草を知る。
これは劉秀の名言のひとつとして、後世の者にも貴重な訓示となった。それは、困難に遭ってはじめて人の価値がわかる、といいかえることができる。ただし、劉秀のことばには詩趣があり、それを平明なことばに置き換えると詩趣が消えてしまう。

詔とは、みことのり、をいう。天使の命令のことである。さらにいえば、命は、軍事的ないいつけ、令は行政的ないいつけを指すが、このふたつの用語は混同されやすい。

拝とは、もともと地の草花をぬきとる人のかたちで、礼容のひとつとなった。その礼をおこなうということは、受ける、感謝するという気持ちを表現したことになる。拒絶するとき、固辞するときは、拝の礼をおこなわない。

劉秀は昔から賊にたいしては寛容を示してきた。かれらは苦しまぎれに賊になったにすぎず、もとは民である、と劉秀はいってきた。民の屍体の上に建てた政府に、どれほどの意義があろうか。民を活かしたい、というのが劉秀の主張であり、その主張通り、降伏した賊を活用した。

これが、全兵士の心をひとつにする術である、といえば、語弊があるであろう。もともと劉秀は術策を好まない人である。どれほど知能のゆたかな人でも、情義にすぐれている人にまさることはない、というのが劉秀の一貫した人のみかたであり、軍も情義でかため、政府も情とおもいやりのあるものにしたい、とかれは考えていた。血がかよっておらず、情のない組織は、どれほど整っていても、けっきょく人民のためにならない、というのが王莽政権の盛衰を実見した劉秀の思想であった。

あえていえば天子の位は天が作ったものであり、人が作った皇帝の位とはちがう。秦の始皇帝は、皇帝であったが、天子ではなかったがゆえに、その王朝は永続しなかった。天の咎めをうけて滅亡したようにおもわれる。それゆえ劉秀は、天の声を聴かないかぎり、天子の位には登ってはならぬ、と自分にいいきかせてきた。天をあなどった者は、天に滅ぼされるのである。漢の高祖は酒色を好んだが、じつは神を畏敬する心を失わなかった。それゆえ天命をよく知っていた。

「覇者と王者とは、なにがちがうのですか」
「ちがいはあきらかだ。人民とともにあり、人民に支えられるのが王者であり、人民を支配するのが覇者だ」

そうよ、章陵では、文叔でいいさ

劉秀のように平凡さをみせていた者が、百万の敵兵にもたじろがず、寡兵をもって大軍を破ったばかりか、敵対した者たちをつぎつぎに宥して、王となり皇帝となったことに、おどろかぬ人はいなかったであろう。劉秀ほど巨きな寛容力をもった皇帝は空前絶後であろう

――戈を止むるの武なり(『後漢書』)
という想念がこめられていたようである。つまり、平和を建てる、という願いが建武にはあった。


宮城谷先生が好きなタイプの人物。
生きる勇気をもらえます。

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